2014/07/09 松下博宣氏

 ケアシフトによって、さまざまな問題をはらみながらも保健・医療・福祉サービスのあり方が変化している。その変化の只中で新しい「ケア・キュア・サイクル」が回りつつある。個人、企業、地域は、人を「健康人的資本」としてとらえ直すことが求められている。その意味で、健康人的資本主義の時代が到来しているのである。

人生最後の約10年は「不健康」
 人口の超高齢化と人口減少に直面する日本は、ドイツ、韓国、台湾、中国などに先駆け、人類未踏の境地に踏み入りつつある。世界有数の長寿国となった日本ではあるが、長生きしても健康でない人の数は増える一方だ。

 そこで「健康寿命」という考え方に注目したい。健康寿命とは、健康上の問題で日常生活が制限されずに過ごせる期間のことだ。したがって、平均寿命と健康寿命の差が、日常の生活に制限が生じる「不健康な期間」となる。2010年の厚生労働省の調査によると、この「不健康な期間」は男性で70.4歳の時点から9.1年、女性で73.6歳の時点から12.7年となる。

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10年前後もある日本国民の「不健康な期間」(=平均寿命-健康寿命)
データ出所:厚生労働省(2010年)
 高齢化社会では、認知症を患い要介護状態となったり、脳卒中、心不全、ガン、その他慢性疾患を抱えていたりする高齢者の人口が増加するのはほぼ確実だ。

 さて、ここで注意したいのが、高齢者の範囲である。「高齢化現象」という言葉を聞けば、65歳以上人口の増加を連想する読者は多いだろう。

 しかし、高齢化現象においては、65~74歳の人口よりも、75歳以上の人口が急増するのである。つまり、前述した「不健康な人生の期間に身を置く人々の数」が急増する。だから問題は深刻なのである。1年につき約1兆円ずつ高騰している国民医療費の財源問題があり、いかに健康な人々を増やすのかが重要な政策課題だ。

 換言すれば、罹病してからの事後的な治療やケアではなく、罹病しないための事前の予防や健康増進が問われている。

拡張される「健康」の意味
 世の中で人が重きを置く価値は多様である。ケアシフトは時代を通底する大きな価値観のシフトを伴う。ケアシフトとともに、老若男女を問わず人口の超高齢化と人口減少が進む日本においては、「健康」という価値に、個人、組織、社会を問わず重きを置きつつある。
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 さて、ここで健康とは何かを改めて考えてみよう。世界保健機構(WHO)は1998年に健康の定義を更新した。それによると、「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全な良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」とされる。

 分かりにくい部分を解説してみたい。まずは「霊的な健康」と「社会的な健康」だ。「霊的な健康」は原文では「spiritual」となっている。これは「霊的」と訳すこともできるが、一般的により分かりやくす「スピリチュアルな健康」と筆者は訳したい。

 スピリチュアルな健康とは、人生の有意味感、希望、充実感、安らぎなどがもたらしてくれる健康である。貧乏でも、みずみずしく横溢した生きがいに支えられている人は、いくらお金持ちでも、人生に空虚さを抱いている人よりも健康であるとWHOは見立てるのである。

 もちろん、死後の世界を信じる人にとっては、「死んでからどうなる?」という確信が重要になるだろうし、死後の世界など鼻から信じない唯物論者にとっても、その人なりの死生観の構えが重要になってくる。

 スピリチュアルな健康が失われると、人はスピリチュアルなペイン(痛み)を感じる。「なぜ私だけが、こんなに苦しまなければいけないのか」とか「私の人生がこんなにも虚しいのはなぜなのか」という問いに、自ら納得できる答えを出せない時、スピリチュアルペインが生じる。不条理かつ実存的な、鉛のように重くて暗い痛みだ。

 社会的な健康も意味深長だ。人はその人ひとりきりで生きていくことはできない。家族、友人、仲間、恋人、配偶者、子供たち、あるいは職場の同僚や地域の様々な人との絆、関係性があってはじめて十全に生きていくことができるものだ。

 健康診断の結果、まったく問題のない子供でも、クラスで陰湿ないじめにあっていれば、クラスという小さな社会から疎外さることとなる。職場でパワーハラスメントが頻発していれば、職場という小さな社会の健康度合いは低くなる。また、社会に内在する所得などの格差が「健康格差」を生み出しているという実証的な研究もある(※)。

(※)近藤克則『健康格差社会』、2005年

 このように、単に病気あるいは虚弱でないことが、イコール健康というわけではなく、身体、精神、スピリチュアルな構え、身の回りの社会との関わりにおいて、バランスよくはつらつと活動している状態が健康なのだ。
日本経済新聞より抜粋